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浅見貴子/絵画の原点に迫る ―画面の裏側に描いて―

個展カタログ『浅見貴子展―光を見ている―』、2007年、アートフロントギャラリー

中村英樹
美術評論家・名古屋造形大学教授

浅見貴子は、和紙に墨や胡粉といった日本古来の画材にアクリル系のメディウムなどの新素材を加えて描いている。どんな既成の様式や制度の枠組み、慣習的な素材の使い方にもとらわれはしない。彼女の作品は、視覚的な表現としての「絵画」が人間にもたらす力そのものを単刀直入に探り当てようとする試みに他ならない。

画面は、細かな筆跡である点や線の密集から成る。人為を超える素材の物質的な特性に即して仮にしるされた無数の痕跡は、その凝縮度の高さにもかかわらず描かれなかった、無限に広がる背後の時空を直感させる。実は、彼女は和紙の裏側に墨や胡粉で描いて、それが染み出した表側を作品として見せる独特の制作方法にこだわる。最新作では、筆跡のリズミカルな反復の力動感と、その重層化による厚みが目立つ。

そんな浅見の作品構造をもう少し丁寧に分析して、それらが示す「絵画」の力の源泉を探ってみよう。

まず、密集する細かな筆跡の一つひとつは、切れ目なく続く外部世界をミクロの断片ごとにたどって認知する過程の表われだと考えられる。「認知」とは、生命体が周囲に対応するために知覚や推理、記憶などによって外部の対象を把握することであり、その有限な働きは、どこまで突きつめても完結しない「過程」として性格づけられる。

この筆跡の本性を裏づけるかのように、浅見は、次のような興味深い文章を書いている。「小さな子供のころ、部屋の空気の粒の動きが見えるような気がしていました」(1998年1月)。また、最近の個展は、身体を包みこむ周りとの親密な関係を思わせる「光を見ている」がテーマになっている。

彼女は、外部世界との関係を断ち切った自己目的的なフォルムを目指すのではなく、あくまで、とらえがたく複雑なカオスの世界に開かれた目をもって描こうとする。ただし、生い茂る樹木と向き合う場合にも、「葉」とか「枝」などという言葉に置き換えられる日常的な次元に留まらず、名前を持たないほど微細な部分の連続を光の現象として見つめる。大小長短の筆跡の密集は、それが「葉」や「枝」をイメージさせるにもかかわらず、「絵画」の本性である〈非言語的な認知過程〉の復権に関わる。

私たちは、普段、言語による分節化を通して外部世界と接している。それは人類の優れた能力ではあるが、一面で、既成概念の固定的な枠組みや、直線的な表現の流れがもたらす単一中心の世界像に縛られることにもなる。それに対して、「絵画」は、いまだ名づけられていない事象と柔軟に交感し、異なった時点での無数の視点による認知を画面上に同時化して示すことができる。それを見る者は、一度に画面全体を見るだけでなく、多中心的な画面の細部を行き来しながら、異時点的な多視点の〈中間〉に立たされ、直接立ち現われることのない彼方なる無限の時空を感知する。

ところで、目の動きが手の動きに置き換えられた無数の物質的な痕跡は、つねに未完結で断片的でしかない脳内の認知過程を可視的にする仮の置き換えであり、それ自体は内実を持たず、いわば〈無〉に等しい。浅見の作品は、素材の物質的特性に即した、異時点における行為の重層的な痕跡に他ならず、和紙に広がる墨のにじみや、墨と胡粉のせめぎ合いなどをその中核としつつ、画面が仮設的な記号であることを強調する。

仮に置き換えられた記号に過ぎない画面の性格を明らかにするこのような描き方は、表現の力を弱めるのではなく、画面を本来の〈無〉に差し戻すことによって、直接表われていない認知過程そのものを強く意識させ、浮かび上がらせる。画面を見る者は、浅見の認知過程を自らに重ね合わせてそれと向き合う。その認知過程の表われは、無限に広がる背後の時空の前にあって未完結で不完全な断片でしかないが、それを見つめる目のうちには、確かな自己生成の根拠が宿る。

では、和紙の裏側に描き、墨などが染み出した表側を見せる浅見のもっとも特徴的な制作方法は、どのような意味を持つのか。意外にも、この変則的とも言える描き方が「絵画」の力の仕組みを多角的に示し、彼女の表現の大きな支えになっている。

そのひとつは、画面の奥へと遠ざかるかに見えるおびただしい筆跡の重なりが、画面のどの部分とも直交する無数の視点を要求するので、全体を見渡したり、近づいてあちこちさ迷うように目を動かして見たりする〈見る者と画面との距離〉の在り方、あるいは両者の関係性の体感が「絵画」の真の中核であることを感じさせる点にある。画面を見る者は、一方の関係項である自己の存在をはっきりと自覚させられる。

次いで、「絵画」における〈自己の内なる他者〉の役割が顕在化する。制作者は、裏側で描きながら、表側に立つ想像上のもう一人の自分の目を持つ。逆に、作品を見る者は裏側で制作する描き手の目を自分のもう一つの目と重ねる。つまり、描く自分を見るもう一人の他者的な自分と、絵を見る自分の向こう側の描き手に等しいもう一人の他者的な自分が育まれる。このような〈自己の内なる他者〉に突き放して見つめられることが自己の存在の確かさを強める。奇しくも、自己生成の場としての「絵画」の原点が裏側に描く方法によって確認される。

裏側に描かれた筆跡の重なりを表側から見るときにつねに起こることは、当然ながら、最初の一連の筆跡がもっとも前面に迫り出し、以下の新しい筆跡は前段階の筆跡に半ばさえぎられながら順次遠のいて、最後の筆跡が一番奥に後退するような感じられ方である。見つめる対象に対する全体的な直観を身体的反応によってあらかじめ示す最初の筆跡は、さらなる認知過程によって繰り返し補われ、次第にきめ細かさと深みを増す。

新しい筆跡が次々と重ねられて、過去の筆跡が消し去られる通常の描き方とは明らかに異なり、仮に対象化された〈初めの直観を補いつづける認知過程〉の表われとしての「絵画」が、これまでの経験をこれからに活かさない自己の在り方を変える。描き手は、何の手掛かりもなく次の瞬間の動きを決めなければならない緊張感から解放される。

他方、黒い墨と白い胡粉で描かれた点や線がお互いに競い合い、対等に絡み合うさまは、認知過程における確かさと不確かさの両義性をうかがわせる。総じて、原初的な認知過程を次の瞬間の拠りどころとすることと、絶対的ではありえない認知過程を許容することの双方が相まって、確実さと柔軟さを兼ね備えた自己の成り立ちによる安らぎが芽生える。

浅見貴子の画面の裏側に描く方法は、最新作に至って、筆跡の向きやかたち、大小や濃淡などの違いが際立って複雑さを増し、その視覚的効果が、見る者の気力を高めるリズミカルな躍動感と、語りかけるようにこちらに迫り出す力強い見応えのもとになっている。

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